鑑真を訪ねて-東大寺と唐招提寺-
はじめに
以前、シリーズ「とるぱ226をゆく」で
「鑑真記念館」をご紹介しました
今回は鑑真の足跡をたどって
奈良の「東大寺」と「
レポートします
中国の高僧・鑑真とは
今から1,200年以上前の奈良時代。
第四十五代・聖武天皇は奈良の大仏を建立するために
増税しました
結果、庶民の生活は苦しくなりますが
僧侶になると税金が免除されるため
出家者が急増し、世が乱れます
これに困った聖武天皇は、安易な出家を防ぐため、
正規の僧侶となるための
※
そこで、遣唐使として送られた日本の僧が
戒律の僧として有名だった
鑑真(当時55歳)に来日要請
鑑真は元々、天台宗の高僧・
「東国で生まれ変わった」という伝説を信じていたのですが、
その東国・日本からの要望に対して、自身も
「仏教が最も栄えるべき場所で戒律を広めたい」
と決意し、要請を受託します
ところが、唐の6代皇帝・
鑑真が唐で有名な高僧だったこともあり、
渡航を認めませんでした。
仕方なく、密航さながらに日本を目指しますが
弟子の密告や悪天候により失敗を繰り返します
5度目の挑戦では嵐で愛弟子を失い、自身も失明
それでも6度目の挑戦となる754年1月。
最初の挑戦から11年目にして日本初上陸
その場所が薩摩半島の南端・秋目浦でした
ここから陸路で大宰府を経由し、
当時、世界最大の大仏
奈良の「東大寺・大仏殿」へ向かうのです
日本初の「授戒」が行われた「東大寺・大仏殿」と「戒壇堂」
聖武天皇は仏法で国を守ることを目指して、
その聖地となる「東大寺・大仏殿」を建造します
【奈良時代の「東大寺・大仏殿」復元模型】
当時の「大仏殿」は現在よりも大きく、
東西に高さ70m(?)の「七重の塔」があったと
考えられています
塔の最上部にそびえ立つ棒状の装飾を
「
創建当時の「
「大仏殿」の東側にあります
現地に行けば、その大きさが実感できるでしょう
そして「大仏殿」に安置される「奈良の大仏」
正式名称は「東大寺
材料となる銅が不足したため、
唐船の重しとして使われた
中国の銅銭を溶かして
そして、仏教公伝から200周年となる752年頃に
その姿形が完成したと言われます。
その後、全身に金箔を貼る作業を行い、
最終的には758年に完成しました。
しかし2度の焼失で、現在は3代目
金箔は貼られていませんが
「
その廻りに設けられた「
全身が黄金に輝いていた当時の痕跡が
わずかに残っているそうです
【仏像の周囲に装飾として使われる「蓮弁」】
【「蓮弁」に貼られた当時の金箔が残る部分】
そんな「東大寺・大仏殿」に鑑真を迎え入れ、
日本初の正式受戒が行われたのが754年のことでした。
※受戒:正規の僧となるための戒律を授けること
この時、「東大寺」を建立した聖武太上天皇と
娘の第四十六代・考謙天皇をはじめ、
400人以上が鑑真から戒を受けたとされます
翌年には「大仏殿」の西側に「戒壇堂」を造り、
大仏の金箔貼りが完了する758年頃まで
鑑真はここで過ごしました。
ただし、当時の「戒壇堂」も焼失しており、
1732年(江戸時代)に再建された3代目の建物が
奈良県の重要文化財に指定されています。
内部は実際に授戒が行われる神聖な場所なので
写真はありませんが、
多宝塔を中心に三段の戒壇が設けられ、
その四隅に国宝の「四天王像」が配され、
仏法を守護しています。
実際に「受戒」が行われる際は
多宝塔の両サイドに「釈迦如来像」と「多宝如来像」が
安置されるそうですが
普段は「東大寺ミュージアム」で展示されているそうです。
ということで、それぞれの場所はコチラ
お花見の時期に訪問したため
奈良公園は大変賑わっていましたが、
ここを訪れる人は少なく、喧騒を離れて
心静かにお参りさせて頂きました