核兵器の悲惨さを伝える「広島平和記念公園」
爆風によって、「広島県物産陳列館(原爆ドーム)」の本体部分は破壊され、
ドーム部分だけが奇跡的に残り、現在に至ります。
現地のボランティアガイドさんの話によると、
「ドーム部分は銅板でできていて、それが最初の熱線で溶け落ち、
爆風の抜け道ができたことによってドーム本体が破壊されず残った」ということらしいです。
ちなみに、この「広島県物産陳列館」は日本で初めて
バームクーヘンが販売された場所として知られます。
投下から30分後、熱線によって至るところで火災発生し、
それが街全体に広がって大火となりました。
火は街を焼き尽くすまでの3日間燃え続けたそうです。
また、最初の爆風と火災によって巻き上げられたチリやホコリが
上空の水分と結びつき、黒い雨を降らせました。
放射性物質を含んだ黒い雨は爆心地から遠く離れた場所でも降り注ぎ、
被爆者を増やして、最初の1年間で14万人の方が亡くなりました。
死亡者の調査結果を記した「検視調書」
特に、爆心地に近いところは即死状態の遺体がたくさんあって、
損傷が激しく、身元の判別がほとんどできなかったそうです。
そんな遺体を積み上げて、爆心地付近の何ヶ所かで火葬しました。
その火葬場の跡地にできた「原爆供養塔」には身元不明の遺骨が数万人分
埋葬されているそうです。
ちなみに、この供養塔がある付近一帯は幕末から栄えた繁華街があって、
建物が密集している地域でした。
アメリカ軍が各地で行った空爆により、建物の火災延焼による被害が大きかったことから、
8月6日に大規模な「建物疎開」を行う予定になっていました。
「建物疎開」とは、一部の建物を取り壊して防火地帯を作る作業のことで、
その作業のために当日朝から12~13歳の学生が繁華街周辺に集められていました。
そんな状況で核兵器が投下され、多くの学生が犠牲となりました。
学生の親達ちは我が子を探しに爆心地へ向いますが、
火傷がひどくて顔の判別できず、衣服や声を頼りに捜したそうです。
ただ、仮に見つかったとしても手の施しようがなかったそうです。
また、被爆から数年経って発症する「後障害」により、
白内障や白血病、ガンなどで犠牲になった人もたくさんいます。